「スプートニクの恋人/村上春樹」を読んで

サラッと読んだだけなら、最後にはすみれが戻ってきてハッピーエンドで何はともあれということなのだろうが、たぶんそんな単純なことではないと思う。

春樹さんのほとんどの小説に共通するテーマのひとつは、
「止めようもなく損なわれてゆくものと、変わらずにそこにあるもの」
「損なわれてしまったあとの耐え難い喪失感」
だと思うが、「すみれが戻ってきてめでたしめでたし」では正直「あれっ」と感じてしまう。

すみれは「こちら側」へ戻ってきたのではなく、「ガールフレンド」とけりをつけて「こちら側」につなぎとめる物がなくなった「僕」が、「あちら側」へ行くドアを見つけて、すみれとコンタクトがとれるようになったのではないかと思うのだがどうだろうか。

そしてミュウは、すみれにとっても僕にとっても「あちら側」へ行くためのドアの「鍵」の役割を担っていたのではないかと思う。
ミュウ自身もひとり、またひとりとドアを通す仲立ちをするたびごとに、半分づつ「あちら側」へ移っていっているのではないか。―もっとも一人では行くことが出来のが「あちら側」なのかも知れないが―

では春樹さんがイメージしている「あちら側」とは一体どんな世界だろうか。
死後の世界やスピリチュアルな世界とも違うような気がするし、四次元の世界でもないような気がする。
「あちら側」とは、「こちら側」とはところどころでつながってはいるが、何かをきっかけに一度「あちら側」へ行ってしまうと二度とは戻れない「あちら側」とでも言えばよいのだろうか。

ある意味で「あちら側」とは、ひとりでは行くことができなくて二人でないと行けない世界なのかもしれない。
確かにそう考えれば、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や「ダンス・ダンス・ダンス」に代表される三部作、「国境の南、太陽の西」「海辺のカフカ」など説明しやすくなるかもしれない。

これは「スプートニクの恋人」に限ったことではないが、
春樹さんが多くの作品をとおして伝えようとしていることの一つは、
大切なものだけでなく、何もかも失って一人きりになって自分自身を見つめなおすことの大切さと、
もうひとつは、二人でしか探せないもの、見つけられないものが確かにあり、
それは二人の間にではなく同じ方向を向いた先にあるものなんだと教えてくれているような気がする。



スプートニクの恋人

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