同窓会、そして「予感」

24年ぶりに中学校の同窓会があった。

人付き合いが苦手は僕は、
中学校卒業後当時の友人とほとんど交流がなかったため、
正直行くのは不安だった。

人間の記憶って、不思議なものだね。
当時好きとは云えないまでも、
憧れていた娘とかを一目見た瞬間、
当時の「キュン」とする気持ちが甦るんだから。

全体的に云うと、
当時元気だった男連中は比較的大人しくなったというか
落ち着いた感じになったけれど、
逆に大人しかった女の子たちは、
「この娘ってこんなに社交的だったっけ」
と云うくらいに変わっていたりした。

多分、この傾向って年を経るに従って、どんどん強くなるんだろうな。
「女は強し」って云うことだろうか。
男は定年退職した後、「わしも族」になってしまう人も少なからずいると云うことが、不意に頭をよぎり、
とても強いリアリティを持ち始めたので少し怖い気もした。




でも、そういうことは、本当はどうでも良かったのかもしれない。

今回、僕はなぜ一人でも参加する気になったかというと、
ある人の消息を知りたかったからだ。


そしてその人は、来た。


とても元気そうな姿を見て、「安堵した」と云うのが、その時の率直な気持ちだった。


その人と僕は不思議な縁で、
中学・高校と同じところに通っていたけれど
交流がはじまったのは高校卒業後だった。

しかも僕は県外の学校に行っていたので、
地元にいたその人と過ごした時間はそんなに多くはないと思う。

けれど、半年・1年振りに会っても、結構同じ事に興味を持っていたり、考えていたり、感じていたりして、
しかもその人の良いところも悪いところも自分とそっくりのように思えて
まるで鏡のようだと思ったこともよくあった。

今にして思うと、その人と僕はツインソウルなのかもしれないと思う。
「かもしれない」じゃない、「なんだ」と思う。
―今ではこの思いはほとんど確信に近い―

その人と僕が交流を持っていた時期は、
互いにそれぞれの問題で、かなり危機的状況にあった時だった。
なんとか、危機を乗り越えた今、
―これを「平時」と云うのだろうか―
プッツリと途絶えてしまってた。
会う必要のない、平穏な時だったということだろうか。

けれど、不思議といつも近くにいる気がしていた。
―実際、物理的にも近いところにいた―
そんな予感はかなり前からしていた。
昨日もその人は来る気がしていた。
もちろん、根拠は何もない、ただ、「そんな気がした」云うだけのことだけれど。

10数年ぶりに会って、
元気な姿を見て安堵したのも正直なところだけれど
「嵐の予感」とでも云うのだろうか、
何かが起こる気がしてならない。

もちろん、思い過ごしかもしれないし、
考え過ぎかもしれない、「ただそんな気がする」だけなんだから。

たとえ何がこれから起ころうとも、
受け入れるしかないのだろうと思う。

「この世に偶然などない。あるのは必然だけだ」

「すべての選択は自分がしてきたこと。
誰のせいでもない、責任はすべて自分にある。」

確かにそうだろう。
けれど正面から受け止めるには、
平穏なときに失うものが増えすぎてしまった。

「予感」を認めるには、
まだ少し時間がかかりそうだ。


さしずめ、「運命」が扉を激しくノックしているというところであろうか。
ベートーベンの交響曲5番のように。

長くなってしまうので、
別の機会に「運命」と「宿命」の違いは書こうと思います。


  • 『国境の南、太陽の西/村上春樹』を読んで


  • 『宿命と運命について

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