「国境の南、太陽の西/村上春樹」を読んで

僕が村上春樹氏の作品で、
いままで一番衝撃を受けたのは「ノルウェイの森」でしたが、
「国境の南、太陽の西」はまた違った意味でかなりの衝撃だった。

「国境の南、太陽の西」の衝撃を例えて云うなら、
海面は微かに震える程度でも、
海底の奥底で大きくグラグラと揺れ動く感じ、
とでも表現すればよいのだろうか。

「ノルウェイの森」は、前触れなしに巨大隕石が地球に降ってきて、
「ドカーン!!!」と激しく衝突した感じ、とでも表現すると、
つたないけれど、現在のボキャブラリーで表現できる一番近い感じを表しているかもしれない。

衝撃まだ覚めやらぬといった状態ですが、
今現在でなんとかまとめた感想を以下に書きます。

先ず、この作品は、僕にとっていくつかのキーワードがあります。

<1.ツインソウル>
主人公「僕」(ハジメ)と島本さんは、
所謂ツインソウルだったのではないだろうか。
そうだとすると、二人の惹かれあい方は非常に分かりやすくなるし、
それを臭わせる伏線らしきものも幾つかある。
先ず二人は同い年で、同じ一人っ子ということ。
そして決定的なのは、「僕はその後もしっかりと島本さんと結びついているべきだった」と云っているところだ。
ツインソウルでなければ、「出会うべきではなかった」となるのではなかろうか。

<2.使者(死者?=島本さん)>
島本さんが中盤以降再登場したときには、既に島本さんは死んでいたのではなかろうか。

28歳のとき街で「僕」が島本さんを見かけたときは、
まだ生きていたのだろうけれども、
その時は島本さんがかなり生命のピンチにあるときで、
助けを求めていたんじゃないだろうか。

そして、36歳で再会したときは
もうその年の2月に、子供と一緒か、
その後、後を追うように自ら命を絶っていたのだと思えてならない。

そして「僕」が自分の人生について見つめなおし、
精神が彷徨っているときに島本さんは現れた。

「あの世からの使者として」

島本さんは既に今生の肉体の束縛がないわけだから、
本当はいつでも会いたいときにいつでも会いに来られる。
だけどそれでは、実態のある人間にはとても思えないから、
時々しか来られない振りをする、
「雨」をキーワードにして。

二人はツインソウルだったとすると、
島本さんは「僕」を迎えに来たのだと云えないだろうか。

「僕」も実は島本さんは既に死んでいて、
自分を迎えに来た事をわかっていて、
だからこそ島本さんと結ばれてしまうと
もう二度と引き返すことが出来ない=命を落とすことになる
と察していたのではなかろうか。

島本さんと結ばれた後はそれが確信と変わったので、
最後の悪あがきとして、(もし生が続くのであれば)
新しい自分になって一からやり直したいと
告白しているように思えてならない。

<3.背中に手を置いた人>
最後のシーンで、そっと背中に手を置いた人が誰なのか
あえて触れられていない。

ありていな言い方をすれば、「死神」だったのではと僕は思う。
島本さんと結ばれた瞬間から、
遠からず死が「僕」を迎えに来ることは分かっていたことだから。


この小説はかなりの部分実際にあったことのように思えてならない。
勿論、事実そのままはかけないだろうから
小説の題材になり得るように昇華させているところはあるだろうが、
春樹氏が書かずにはいられなかった衝動と
魂のパワーとでも云うような、言霊を僕はとても感じた。



国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

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この記事へのコメント

tom
2006年10月15日 23:59
島本さんは既に亡くなっていた・・背筋が寒くなるような解釈ですが、貴説によってずっと私が抱いていた「もやもや」が全て解消しました。村上氏がはっきりと解説することはないでしょうが、たぶん貴説が正しい背景なのではないかと思います。
私の「もやもや」とは主に次の点です。①島本さんの生活があまりにミステリアスである点-二人ともお互いの気持ちがわかっているならまた、もっと会う努力をしたらどうなのか、と不思議でした。②島本さんのなぞの病状-すごく怖いシーンだったのにその後何の説明もないし、再発する気配もないし、なんだったの?という感じでした。③箱根の山を歩いて下りたのか-いくらなんでもきついし、登山鉄道に乗るのもあまりに普通過ぎるし・・と思ってました。④箱根でいなくなったあと、あきらめ早すぎ-もっと探したらどうなのか、と思ってました。
これらは、貴説ですべて辻褄があってしまいました。正直言ってとても哀しい説ですが、なぞは溶けました。殆ど「能」の世界ですね。「能」だと思えば、"不倫もの"という分類はとんでもなくまとはずれで、美しい芸術としての文学作品なんですね。これもやはり。
いろいろ感想文
2006年10月16日 10:42
コメントありがとうございます。
村上春樹さんの魅力は色々ありますが、個人的にはハッピーエンドでない終わり方の方が好きです。
小説に深みが増すというか、春樹さんの小説の多くは、ハッピーエンドで結んでしまうと不必要に薄っぺらな軽い感じになってしまうような気がしますので、グレーやブルーや時にはモノトーンの様な色彩を感じることがありますが、多分その時の春樹さんの心の色が投影されているのではないでしょうか。
確かに、「国境の南、太陽の西」は“人情もの”や“不倫もの”というよりも、tomさんの仰るとおり“能”に近いのかもしれません。
それと、僕も後で知ったことですが、「やがて哀しき外国語(その2)」で書いたように、「国境の南、太陽の西」と「ねじまき鳥クロニクル」は、もともと一つの小説だったとのことです。
「どの辺まで一つの小説として書かれていたのだろう」と想像しながら読むと、また違った面白さがあるのかも知れませんね。
今後とも、気付いたことがありましたらコメントをお願いします。
シンタリート
2010年05月03日 00:58
今読み終えたばかりなのですが背筋がゾクゾクしています。 霊ですよ
彼女は雨の日にしか現れないし 自分のことは一切話さないし 急に消えてしまうし・・・
いろいろ感想文
2010年05月03日 14:01
シンタリートさん、コメントありがとうございました。島本さんは何かの象徴だと思うのですが、何なのか未だにわかりません。もう一度読んでみたら、何かつかめるでしょうか。
結局、僕自身がもう少し成長しないと、わからないような気もします。
きみ
2014年09月16日 16:48
島本さんが「死んだ」という解釈はかなり説得力がありますね。

そして、幽霊の島本さんが「僕」(ツインソウルかどうかわからないが、とりあえずかなり気に入っていることは確かでしょう)をあの世で待ちきれず、この世に戻って迎えに来ました。その解釈もありですね。

ただし、箱根の別荘で2人が結ばれた際中、島本さんのことについてもっと知りたいと言った「僕」に対して、島本さんが「明日答える」のようなことを言ったのに、明日になると何も言わないまま突然姿を消したのは、どう解釈すればよいですか?

私はこう思います。次の日になると島本さんが考え直したじゃないか。今はまだ「僕」のタイミングではないので、無理やりあの世に連れて行くのはどうか。嫁さんと娘2人との生活でまだやり残しがあるんだ。もうちょっとこの世で魂の勉強をしてもらわないと。。。

ですので、島本さんがあの世に戻って待つことにしました。

そうすると、最後に背中に手を置いたのは、嫁さん有紀子ではないかと思います。「島本さんのところに行くのはまだ早いよ、しばらくは私と一緒に歩みましょう」、と有紀子がいうでしょう。

「僕」が37歳で死なないもう1つの重要な根拠は、島本さんと石川県のある川を一緒に歩くとき、「この風景は見覚えがある。将来老人になった時に見る風景だと感じている」みたいなことを「僕」が強く感じました。そうならば、「僕」はお年寄りと呼べる年齢まで生きるじゃないかと思います。
いろいろ感想文
2014年09月18日 22:38
きみさん、コメントありがとうございます。
実はエンディングで背中に手を置かれるシーンに、いまひとつしっくりする解釈・理解が出来ていませんでしたが、きみさんの説明で胸のつかえが、文字どおり「すっと」取れた気がします。
死神よりも有紀子と考えると、180度感じ方が変わって、救いのある、明るいエンディングになりますね。
久しぶりに読み直してみようと思います。
ありがとうございました。

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